Orchestra― 自己責任論の背景 | Social Stalking
Orchestra― 自己責任論の背景


Orchestra― 自己責任論の背景

「自分の不幸を親や社会のせいにする心理。うまくいかないのは自分だけの責任じゃない」

こうした主張を耳にすれば、誰だって「こいつは自分の能力の無さを、社会のせいにする卑怯なやつだ」。
そう感じる方々が支配的であることは十分に承知しているし、自分自身もよく理解している。
ではなぜ、そうした主張を否定しないのか。

それは、長らく様々な情報や実態に触れ、それらと自分が体験してきた実感との符号が、そうした認識に至らせているからだ。単純に聞きかじった思い込みではない。それに、社会的な公害等といった歴史的事実は、調べていけばいくほど、主張者の声に耳を澄ませば澄ますほど、社会の状況というものは、今も昔も、権力構造が支配的に振舞っているという実態を嫌でも理解しなければならなくなる。

したがって、自身に思い当たる状況との接点とを前提にして、不満に対する社会的責任の転換というものでは断じてなく、状況に対する説明であり、自己の責任においた主張として置いている。これは例えば、法廷における弁護に値する。

法廷では、お互いの正当性と、相手の非難が衝突する。そこに弁護人という第三者が、「客観的な」専門的立場からの弁護を、それぞれに行う。もしもこの場において、相手の非難を一方的に飲み込んでしまったとしたら、自分の主張するべきところを取り下げてしまったとしたら、いったい誰が自分に降りかかる雨から身を守れるというのか。そうして「公正的な尺度から」裁判官は、判決を下す。それが、社会的な罪と罰という決定がなされる場である限り。法廷外でも、傘を自分で手に持つように、自分自身の身を雨から保護しなければならないと思う。歴史は法廷におけるモラルの基準、その変動性も示唆している。だから、本物の裁判官は、それぞれの状況、環境、時代によって存在するとも言えるししないともいえる。言いかえればそれは、「公正な」という意味になる。

そうした心境的土台を基にして、自分やその他の理不尽な状況に陥った見知らぬ人々との共通言語を以て、責任転換ではなく、社会の持つ責任の追究とした意味合いからの指摘と主張をするようになっていた。それは戦っているというよりは、闘っているという心境である。そして社会という共同体を考えたときに、困窮した立場に置かれた人々に対する保護や責務といったものは、税金という予算枠に対する決定権を持つ国、政府、与党に、そしてそれら義務を指摘し、見過ごしてはならない野党を含めた公人、公務員他、それらの天下りとしての繋がり先に至る人々にあるはずだ。権力にあるはずだ。間違っていますか?この考えが、反政府的であるとすれば、それは人間ではなく機械人形として生きろという抑圧的命令に等しい。それは私が幼少、買ってくれる約束だったものを、いい加減な言い訳ではぐらかされて反故にされた、親に対するあのころの腹立ちさと似ている。

言い逃れや弁解、責任逃れといった脆弱な心境から吐き出している言葉じゃないことを示しておく。無論、理解は求めない。もう、こうしたコインテルプロ(Counter Intelligence Proglam)という監視環境下で生を刻んでいる可能性を払拭できない以上、何をやっても排他的論調によって情報操作propagandaされ、信用や人格的な攻撃を促す社会全体的な世論風洞、誘導されていく傾向にあるということは、歴史からすでに学びとった。市民諜報といったところで、現実には人格的な粗捜しが横行しているということは、これまでの記録に目を通すたびに思い廻る。こうした実態を認識する人はいつも少数だから、世論への感応はありえない。報道力もなく、民意を示すデモを否定はしないが、それはあまりにも無力に思う。でも人々の主張を強圧的に封じ込めることは絶対に不可能なことも歴史的な事実。物事は決して一方のみでは成り立たない。だからといって、暴動へと発展することが、更なる不必要な犠牲者を生みだす惨状である以上、それを肯定することはできない。

だから私は、見知らぬどこかの街で、自らには責のない不遇状況に陥っている人々が、バラバラではあっても、徒党や団結といった、目に見えるものではなくとも、それぞれが、それぞれのスタンスで、自分の中にある楽器を演奏すればいいのだと思っている。演奏し続けていけばいいのだと。それが、連携のもうひとつの形ではないのかと。いらぬ期待感をもたせるつもりはないが、もしかしたらいつの日か、そんなバラバラだった音調が、いつの間にか調和していき、まるでオーケストラのように、美しい音楽を、街々に、奏でていくのかもしれない。

私は社会的構造矛盾による犠牲排出に対して批判的であると同時に、誰からの批判よりも厳しい内省家としてもありたい。それが私の人間観、理想像。
To the person who keeps fighting quietly.

22 Feb,2008 windyjuly
26 Feb,2008※一部加筆修正
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