構造的な矛盾― Structural contradiction | Social Stalking
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | - | -
構造的な矛盾― Structural contradiction

※イメージは防犯ネットワークによる監視行為の弊害的影響について問いかけるものです。防犯意識に対する批判ではありません。


今蔓延している苦痛というものは、おそらく、構造矛盾そのものであると思います。社会構造の良心的な場所と対極にある歪み。その荒んだ歪みがもたらす精神性の連鎖が、個人に対する迫害行為として、音立てずに唸り声をあげている。そう考えています。
いくら降灰に声を上げても、どれだけ呼びかけたとしても、ほとんど届かない。しかしそれもまた、当然のこととして受け止めることができたとき、もうひとつだけ、自分の中にある人間精神的なものが、諦めではない理解を生み出すに至ったことを思い出します。

EUを中心にして、人の持つ精神的な迫害気質に、立法的な対策が施されてきています。スウェーデン、オランダ、フランス、ベルギー、フィンランド、ポーランド、デンマークをはじめ、イギリスやアイルランド、イタリア、スペインなどの、立法化に至らないまでも、国会内で具体的な議論が続けられている推移があります。

これらは職場における、モラルハラスメント、モビングやブリイングといった労働者に対する精神的いやがらせなどの迫害行為を適応範囲としているものですが、日本国内では、未だ具体的な議論には発展していません。
労働安全衛生法制による、労働者に対する労働環境的な保護を使用者へ義務づけてはいますが、精神的ハラスメント実態推移の歯止めとしては不十分であることは、男女雇用均等法によるセクシャルハラスメントのような、ハラスメントに対する定義づけがなされていないことからも理解することができます。また私自身も、現実にこうした現況の一端を目撃し、そしてその矛先を隠微な形で受けてきたひとりとして、その可能性を理解しています。

こうした打開策のひとつとして、政策研究大学院大学教授 濱口桂一郎教授の「職場のいじめに対する各国立法の動き」レポート内に、人権擁護法案の制定による対策化への可能性予測が示されておりました。そこから人権擁護に関する法制を調べてみましたが、人権擁護法案そのものにおける議論も様々にあり、法制を歪曲し利益享受を目論む諸団体に対する懸念も示唆されていることなどから、今後法制化が実現したとして、その法制化が実質、本当に人権を擁護される必要のある個々人への人権を保護することのできる立法として機能するのかどうか。

いずれにしても、こうした人の持つ悪意の循環作用は、個々の企業内で留まっている性質ではないこともまた見えてくるはずです。私が社会的なネットワーク構成による迫害行為の可能性というものを、体感的周囲異変との接点として把握している根拠は、これら精神的ハラスメントに対する各国の立法的な取り組みと推移の中にも指し示すことができます。
社会的なネットワーク構成による迫害行為とは、具体的にいえば、それはトップダウン式の、軍事的規律との類型を匂わせるものです。さらにいえば、地域的なまちづくりの従事者、関係者人脈による、企業、団体、公共を含めたものとして、その形を映しだすことができるように推察しています。

現状はあまりにも、そうした証言に対する被害妄想的な印象に隔たっている、同時にそれは、癒着的構造下における犠牲排出システムであると揶揄されていることも、疑いの域を脱し始めていると思われます。こうした事実を基に推察していくことによって、その周辺背景から、歴史上における迫害史の途中に、今も生きているという認識が、被害妄想とされうる人々の実情を浮き彫りにしていくはずです。

一般社会が実害事情を認識することは、これまでに公にされてきたいくつもの問題と同様、あるいはそれ以上に困窮したものとなっている。そこで私は、社会全体に陰湿な影響を与えている現況そのものを凝視するしかない。そこには認知されていない構造矛盾による犠牲で苦痛にあえぐ方々がいることを、主観を突き放してみたときに理解しました。理解されたいと願うことは、私にとってはすでに重要な問題ではなくなっています。国内外の証言から窺うことのできる背景に目を留めていくことで、同質の苦痛証言に共感を覚えます。そうした背景から、一般生活者にとって風通しのよい社会を理想であることを承知の上で、概念化へ向けたアプローチの根を絶やしてはならないと考えています。

迫害行為と痛みは、発展的な気付きを与えてくれるものだと信じます。私には宗教観がありませんが、哲学的な概念には興味を持ってきました。それは私の母親が、宗教信者であったことがその理由のひとつとしてあります。私はこれまでに、自分が知らない部分で、この事実に対する影響との接触があったことに気が付いています。実際、母親に対する記憶は、あまり親和的なものではありません。宗教というものが、純真さを利用されうるとした意味において、争いを送出する作用を持ち得る側面を俯瞰した際、体系化された集合的な観念は、厚化粧を施した言葉にすり交わり歪曲され、欲の塊に飲み込まれていくものであることを、歴史的に、あるいは人間精神的な角度から、思想的にではなく事実から把握することができるように考えます。事実とは、犠牲者の存在のことです。

Ⓒwindyjuly―

- | comments(0) | trackbacks(0)
スポンサーサイト
- | - | -
Comments
Post a Comment










Trackback URL
http://socialstalkin.jugem.jp/trackback/32
Trackbacks
Recent Comments
Search this site :